「こんにちは…」
珊瑚礁の裏手、従業員用の入り口とされているそのドアを開けて、あかりは中へと声を掛けた。しかしその声は後半にいくにつれて尻すぼみになっていく。というのも、キッチンのテーブルの上に、突っ伏すようにして座っている佐伯瑛の姿があったからだ。
あかりは後手でドアを閉め、足音を立てないように彼に近寄る。瑛くん、と控えめな声で呼んでみるも、彼はぴくりとも反応しない。そうして彼のすぐ傍まで近づいて、彼の背中が規則正しく上下していることに気がつく。ついでに寝息も聞こえてきたので、てっきり具合でも悪いのかと思っただけに、あかりはほっと胸を撫で下ろした。
そうして彼のすぐそばまで近寄りしゃがんで見れば、瞼が下ろされている横顔が腕の隙間から伺い見れた。そういえばと、先日の中庭で寝ている佐伯を思い出して、ほんの少しだけ気持ちが沈む。
今日に至っては予習をし忘れたといって、いつもより朝早く登校していたっけと、あかりは朝の出来ごとを振り返った。
目元にうっすらとクマが出来ているのは勘違いではなくて。
あかりは痛む胸を自覚して、眉根を寄せた。
学校内では「はね学のプリンス」として振る舞う彼と、珊瑚礁で仕事に励む彼。いつだって完璧を目指す佐伯は、いつ気を緩めることができるのだろうと心配になる。
それを本人に言おうものなら、「余計なお世話だ」と突っ返されるのはわかりきっているので言えないけれど。
(そんなに頑張らなくてもいいんだよ)
そう、あかりは胸中で独りごちる。
しかし偶然とはいえ珊瑚礁をバイト先として選び、そこで一緒に働くことになってしまったのは、やはり佐伯にとっては重荷なのだろうかと今さらのように考えて。
再び、胸の奥が鈍く痛む。
他にもバイト先なんてあるだろうと、最初の頃に言われた言葉を思い出す。そうだ、他にもバイト先はある。あのときは売り言葉に買い言葉で、ここで働くと啖呵を切ってしまったけれど、自分が辞めることで少しでも彼の負担が軽くなるのなら。
そんなことを考えていると、ふいに目の前の彼が身じろいだ。起きる気配を察するものの、あかりは身動きが取れずにその場に留まってしまう。
目を覚ました佐伯は目と鼻の先ほどにいるあかりの姿を見つけて、がたんと椅子を鳴らした。
「おま、何してッ」
「……瑛くん」
「……なんだよ」
「わたし、いない方がいい?」
思わず、本音が口を滑った。
それを言った途端、佐伯はほんの少しだけ目を見張った。しかしすぐに真顔を作ると、まだセットされていない前髪に触れながら問う。
「辞める相談か?」
「そうじゃなくて、わたし、瑛くんの重荷になってるんじゃないかって」
思って、までは言えなかった。そこまで言う前に、佐伯お得意のチョップが飛んできたからだ。
けれどそのチョップは、いつもより格段に威力は弱い。
「ばか、何つまんないこと考えてんだ」
「……だって」
「今さらおまえがここを辞めたって、俺が働いてるのはバレてんだ。だったら、その分必死で働けよ」
「…でも」
「これでもそれなりに当てにしてんだ、じーさんも。……俺も」
「え?」
「ほら、さっさと着換えろ。開店準備だ」
「瑛くんっ」
立ち上がり、自室へと続く階段へと向かう彼の背中に、あかりは慌てて声を掛ける。
佐伯は立ち止まるも、振り返らない。数メートル離れた距離がもどかしいが、けれどなぜか詰めることができずにあかりはその場に立ちつくす。瑛くん、ともう一度名前を呼ぶと、佐伯は振り返らずに口を開いた。
「週末、予定は?」
「え? …特に、ないけど」
「じゃあ空けとけ。敵情視察だ」
「デート?」
「敵情視察!」
「何を騒いでるんだ」
ふいに、第三者の声が割って入ってきた。佐伯の祖父で、珊瑚礁のマスターでもある彼は、どうやら店の方にいたらしい。
「別に、俺ももう店の方出るから」
「そうか。あかりさんも大丈夫かな?」
「あ、はい、すぐ着替えます!」
まるで鶴の一声のように、結局二人の会話はそこで終わった。
あかりは着替えるためにバックルームに入り、ロッカーを開ける。珊瑚礁の制服を手にし、ふいにさきほどの佐伯の言葉を思い出す。
――これでもそれなりに当てにしてんだ、じーさんも。……俺も。
緩みそうになる頬を、必死で堪える。
自分は思っている以上に、彼に当てにされているのが、うれしい。
(…うん、うれしい)
同じ言葉を繰り返し、けれどこれ以上にやけないように両頬を引っ張った。
現状に甘んじてはだめだ。
もっと、今以上に当てにされて、佐伯が気を緩める隙ができるように。
「……よし」
あかりは一人気合いを入れ、珊瑚礁の制服に着替えた。
[2回]
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