おかえりなさいませと従業員の女性に出迎えられれば、改めて旅館内の施設の説明を受ける。特に大浴場のローマ風呂を初めとした数種類の温泉、家族風呂や展望台に設置された露天風呂等々と話を聞くだけで先ほど目の当たりにした秘宝館でのナニでアレの気まずさをうっかり忘れてしまうほどに魅力的だった。そうして部屋の鍵を受け取り、数種類ある浴衣を選んでいた頃にはすっかり浮足立っていたのだ。浴衣姿の宿泊客とすれ違っては、どこのお風呂から入ろうかなんて呑気に考えている間に客室へと到着。レトロなキーホルダーがついた鍵を使って部屋を開けると、ドアを手前に引く。ひょいと室内を覗き込んで、そして、
「……」
「……」
瑛とあかり、二人揃って黙り込む。
というのも、戻ってくるのが夕飯前だとわかっていたからか、すでに部屋には二組の布団が並んで敷かれていたのだ。否、宿泊人数が瑛とあかりの二人なのだから、二組の布団が敷かれているのは当然と言えば当然なのだ。ついでに今回は「日帰りのデート」ではなく、「宿泊する旅行」なのだということを今更のようにあかりは気が付いた。まるで古いロボットか何かのように、ぎぎ、とぎこちなく首を動かして、瑛へと視線を向ける。すると瑛は眉間にしわを寄せていて、けれどいつものようにあかりにチョップを下ろしてきた。
「ほら、とりあえず着替えよう。こんなところに突っ立っててもしょうがないだろ」
「あ、うん」
促されて、不自然なぎこちなさは継続したまま室内に入る。さっきまであれこれと着るのを楽しみに抱えていた浴衣を、しかし今は藁に縋るように抱きしめる。うろうろと所在なげに室内を見渡して、そうして布団が視界に入るたびにさっと目を逸らしてしまう。ええと、と口の中で呻く。
「浴衣、内風呂の脱衣所で着替えたいいんじゃないか? 鍵掛ければ問題ないだろ?」
「そ、そうだね! そうするね!」
不自然さ全開で頷くと、あかりは逃げるように脱衣所へと飛び込んだ。ドアを閉めて鍵を掛けて、すうと息を吸う。次にその息を吐き出すのと一緒に、思わずその場にへたり込んでしまった。
(……どう、しよう)
内心で呟いて、頭を抱える。
瑛と一緒に旅行に行けることにばかり浮かれて、「二人で泊まる」ということの意味を完全にすっぽ抜けていた。我ながら間抜けだとは思うが、なまじ瑛とは珊瑚礁が閉店したクリスマスのあの夜を共に過ごしたことがあるだけに、変なところで男女間の意識が薄くなっていた。
けれどあのときと今では、瑛との関係は変わっている。
卒業式の日のあの灯台から、二人は友達から恋人になった。
そんな今更のことを、「恋人」として二か月も過ごしてからようやく、改めて痛感させられた。
友達ではないのだから、恋人なのだから、その先のことがあるに決まっているではないか。
そうして、ふいに今日見た秘宝館の出入り口にでんと鎮座していた「アレのナニ」を思い出してしまった。
(ワアアアアアアアアアアアアアアアア!!)
思わず叫びだしたいを堪えて、代わりに心の中で盛大に叫び散らす。ごろごろと床を転がりたい衝動の代わりに頭を抱えて、もうどこから突っ込んでいいのかもどうしたらいいのかもわからない。ただ、ずっとこのまま脱衣所に籠城してるわけにもいかない。
あかりは観念して浴衣に着替えて脱衣所から顔を出すと、瑛はすっかり着替えて終えて部屋に備え付けの緑茶を淹れているところだった。
「お待たせ、しました」
「ん」
短く頷いて、彼はあかりの分のお茶も淹れてくれた。微妙な距離を取りつつ瑛の隣に座れば、妙に重圧が掛かったような湯呑を両手で包むようにして持ち上げる。
「風呂さ」
「ハイッ」
「どうする? もう行く?」
「あ、えっと……どうしようか?」
「夕飯まで少し時間あるだろ。今日は早起きしたし、先に風呂に入っちゃった方がいいと思うんだけど」
「そ、そうだね」
「あのさ」
「ハイッ」
びし! と二度目の威勢の良い返事に、瑛は困ったように眉を寄せた。ここまであからさまな態度を取っていれば、さすがにこちらの考えは相手に筒抜けも良いところだろう。だからこそ彼はわざとらしい咳払いを一つして、あのさ、ともう一度同じ言葉を繰り返した。
「俺は、おまえが嫌がることはしないし」
「……」
「それにな、こういうことをおまえが全ッ然考えてないこともわかってたから」
「全然」のところをものすごく気持ちと力を込めて言われてしまい、反射的に「そんなことない」と言おうとして、けれどまったくもってその通りなので結局は口を紡ぐ。
持っていた湯呑をぎゅっと握り、俯く。
「……ごめんなさい」
ぽつんと、呟く。いくらなんでも軽率過ぎたと後悔するなんて、今更すぎるほどに今更だ。思い返せば瑛は「そういうこと」への配慮をそれとなく促してくれていたいうのに。
「いいから。そんな落ち込むことじゃない」
ぽんぽんと、瑛の手があかりの頭を撫でる。なんと言葉を返していいのかわからずに視線を上げれずにいれば、ほら、と瑛の声が続く。
「風呂に行こう。楽しみにしてたんだろ?」
「……うん」
「カピバラはカピバラらしく温泉に浸かるんだぞ。お父さん、そこまで面倒見れないからな」
「もう! 瑛くん!」
思わず、勢いで顔を上げてしまった。ら、おかしそうに笑っている瑛と目が合って、けれども気まずさを持て余すよりも先に、行くぞと間髪入れずに相手が立ちあがってしまった。なのであかりも自然にその後を追っては、念願のローマ風呂へと向かったのだ。
ホームページで見た写真よりも迫力のあるローマ風呂を堪能したあとは、部屋に戻ったところでタイミングよく夕飯の準備が始まるところだった。THE・旅館料理、というラインナップの夕飯は更に旅行気分を盛り上げてくれて、いつもよりも食べ過ぎてしまった感は否めない。
そうして気まずさはだいぶ薄れ、あれこれと他愛無い会話を問題なくできほどに落ち着いていた。けれどその間にも時計の針は進んで行き、日付が変わりそうなった頃にはうつらうつらと眠気が手を振ってきた。
「そろそろ寝るか」
「…ん」
促されるままに頷いて、ふわあっとあくびを一つ。けれど意識を布団へと向けたところで、忘れていた緊張を思い出した。しかしそんなあかりとは裏腹に、瑛はさっさと身支度を整えて寝る準備に取り掛かっている。
「あかり、電気はどうする? 全部消すか?」
「よ、よろしくお願いします」
はいはいという適当な返事のあと、あかりの希望通りに室内の電気が消された。真っ暗になった室内で、隣の布団に入る瑛の物音がやけに大きく聞こえる。
「…瑛くん、おやすみなさい」
「おやすみ」
なんとなく気まずくて、瑛から背を向ける。さっきまでは眠くて仕方がなかったはずなのに、いざ眠ろうしたら眠気はどこかにすっ飛んでしまった。どきどきどき、とすっかり落ち着いたはずの鼓動がまた速くなる。胸を押さえて少しでもおさまれと念じてみるものの、その効果はまったく効果は発揮されなかった。逆にどんどん目が冴えていく気がして、もぞり、と身じろぐ。身体の体勢を仰向けに変えると、薄暗い天井を見上げてみる。少しだけ暗闇に目が慣れて、うっすらとならば隣にいる瑛の姿くらいは確認することができた。瑛は先ほどのあかりと同じように、こちらへ背を向けるようにして寝ている。
「……」
手を伸ばせば届く距離に瑛がいるのに、向けられているのが背中というのが、ひどく寂しい気持ちになった。
(瑛くん)
胸中で名前を呼んで、ぎゅっと布団の端を掴む。
ここで、もし、手を伸ばして瑛に触れたならば、きっと後戻りができないのはさすがのあかりにもわかった。
そもそも瑛は、最初からそのつもりだったのかもしれない。けれどあかりの準備が整っていないとわかったから、強引に求めては来ないのだ。思えば、今日は手を握る以上のことを彼はしてこない。それはきっと、瑛なりの自制心の賜物によるものだろう。
布団から手を離し、瑛ではなく、瑛の布団に触れる。
どうしようと、心に迷いはまだ、ある。
どうしようと、何度も繰り返す。
どうしようと、戸惑って、でも、それでも。
「……瑛、くん」
ちいさく、頼りなげに、あかりは瑛の名前を呼ぶ。ぎゅっと布団を握って、心臓はもう、どうしようもなく早鐘を打つ。
数秒の間のあと、なぜか呆れたような溜息が聞こえた。
「……いい子はもう寝る時間だろ」
「子供じゃ、ないもん」
「今なら、まだ子供扱いしてやれるんだぞ」
「……わかってる。わかってて、わたし」
と、それ以上は言葉に詰まり、なんて続けていいのか悩んでしまう。けれどその間に瑛が上半身を起こして、あかりを見下ろしてきた。あーと低く唸ったあと、彼がこちらへと身を寄せる。寝た状態のまま動けないあかりの横顔に、とん、と瑛の手が置かれた。この暗闇でも表情がわかるほど、顔が近づけられる。
「いいのか」
確認。
きっと、これが最後だ。
ここで拒否すれば、瑛は引いてくれるだろう。
そういう優しい人だと、あかりは知っている。知っているからこそ、あかりはその優しさに甘えていた。だからこそ、逃げたくないと思った。
「いいよ」
言ってしまったと、身体が無意識に強張る。
心臓の鼓動が、耳にうるさい。実は耳のすぐそばに心臓があるんじゃないかと思うほどだ。
「あかり」
名前を呼ばれて、瑛の顔が近づく。彼の髪が顔を掠めて、くすぐったい。掛け布団が避けられて、彼の手が浴衣の上からあかりの腕を滑るように撫でた。まるで確認するように手を握り、もう片方の手でこちらの頬に触れる。
「……なるべく、痛くないように努力する」
ぼそりと、瑛は言う。その言い方と、言葉に彼からも同じような緊張が伝わってくる。
「……お願いします」
同じように、あかりもぼそりと呟いた。なんて返すのが正解だなんてわからなくて、しかしそれは瑛も同じなのだろう。お互いのいっぱいいっぱいな空気を張りつめさせたまま、瑛の唇があかりの唇へそろそろと触れた。ふに、と柔らかい感触を受け止めて、けれどそれが妙におかしくて。そうして初めて瑛とキスをしたときのことを思い出した。
それは卒業式の灯台でもなく、羽ヶ崎に入学したばかりの事故でもなく、もっとうんと幼いあの日のことだ。
泣いている幼いあかりに、同じく幼い瑛はもう一度会えるようにとキスをしてくれた。
「あかり」
唇を重ねたまま、名前を呼ばれる。眼の前にいる瑛はあの日の男の子のような幼さはすでになく、けれどもそれとは別の面影は確かに残っていた。
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割と昨日カッとなって書き上げててちょっと手直ししたんですけども本当の戦いはこれからだ!!!!!!!!!!!!!!
いかがわしい表現ってなんか頭と体力使うよねヾ(:3ノシヾ)ノシ
むしろいかがわしいのがいかがわしくなってるのかいつも不安ヾ(:3ノシヾ)ノシ
[5回]