「あれ?」
何気なく通りかかった準備室前で足を止め、紺野は思わず声を上げた。すると室内に佇む女生徒が振り返って、目が合った。黒板消しを手にした彼女は同じクラスメイトだが、覚えてはいるのは名前くらいで正直あまり交流はなかった。
一先ず紺野は再び室内に視線を巡らせて、もう一度首を傾げた。訊く。
「ここの掃除担当は君と設楽の二人じゃなかったかな?」
「そうなんだけど、セイちゃん、逃げちゃって」
「セイちゃん?」
彼女の呼び方を聞いて、紺野は更に怪訝な表情をする。それに対して相手は苦笑を浮かべると、幼馴染なの、と理由を付け加えられたことでようやく合点がいった。なるほど。そういえばこの場にいない設楽と彼女がよく一緒にいる姿を見けるなあと、高校に入学してからここ二ヶ月弱の記憶を振り返った。
「設楽は君に押し付けていったの?」
「頑張って引き止めたんだけどね」
言う彼女は肩を竦めて見せるものの、これが初犯ではないということがありありとわかった。となればこれは設楽ばかりではなく、彼女も相当なお人よしということだ。紺野は相手と同じように苦笑を返せば、室内に足を踏み入れた。
「ちゃんと当番制になのに。だめだな、設楽は」
「ね。今度捕まえたらきつく言わないと」
紺野に同意するように力強く頷いて、美奈子は八つ当たりのように黒板消しを窓の外に向けて思い切り叩いた。すぐにもわもわと白い粉が飛散する。紺野はそんな彼女の後ろ姿に向かって口を開きかけて、けれどふいに聞こえたピアノの旋律に意識を奪われて言葉を止めた。今日は吹奏楽部の活動は休みのはずなのに、なぜだろうと思っていた矢先、黒板消しを掃除していた美奈子が驚いたような顔をして、手を止めていた。
ピアノの音色は、まだ続いている。
「…セイちゃん」
ぽつんと、呟く。
妙にそわそわと落ち着かない仕草で視線を彷徨わせるも、それは聞こえてくるピアノの音を追いかけているみたいだ。そんな彼女の態度に紺野は目を細めて、問う。
「このピアノ、設楽なのかな?」
「え、あ…うん」
「あいつ、ピアノが弾けるんだな」
「…うん」
尋ねるたびに頷く彼女の声はちいさくなっていく。どうしたのと紺野が訊くよりも早く、美奈子は顔を上げて詰め寄ってきた。
「あの、紺野くん!」
「な、なに?」
「掃除、もう終わりでいいかな?」
「え?」
彼女とクラスメイトになって二ヶ月弱だが、こんな剣幕を見せたことはなかった。思わず面食らって目を白黒させてしまうものの、紺野は何とか立ち直って相手の目を見返す。きゅっと唇を引き結び、黒目がちの目でまっすぐこちらを見つめてくる彼女になぜか鼓動が高く鳴った。けれどその原因を突き止めることはせずに、紺野は美奈子が握りっぱなしの黒板消しを受け取った。
「うん。もう大分片付いてるから、いいんじゃないかな」
「あ、ありがとう!」
言う紺野の言葉に美奈子はぱっと笑顔を見せたあと、黒板消しと紺野を交互に見てからぺこりと頭を下げた。準備室の隅に置いておいた鞄を肩に掛けて、「また明日ね!」とだけ言い残すと文字通り教室を飛び出していく。途端、廊下は走るなあ! という大迫の声が響いてきたので、こちらまで驚いて身を竦めてしまう。
一人きりで準備室に残された紺野は、受け取った黒板消しをじっと見つめた。
準備室内は次第に夕暮れに染まりつつあって、そうしてピアノの演奏もまた、校内に響いて紺野の耳に届いていた。
(小波美奈子さん、か)
改めて相手のフルネームを思い出して、内心で呟く。去り際の笑顔を思い出すと再び鼓動が大きく鳴った気がした。けれどやっぱりその理由はわからず、紺野は黒板消しを元の場所に戻すと、自分も準備室を後にしたのだった。
[3回]
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